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〈水問題を考えよう 第4回〉 原発事故―経済優等生から環境落第生へ堕ちた日本 = 井上 駿 [環境問題は、今]
2011年3月11日、この、歴史から消したくても消せない日を私たち日本人は心の底から噛みしめてこれからの生き方を考えなければならない。
世界の海を巡り始めた日本からの放射能汚染水
福島第一原発の事故によって発生した放射能は、大気を経由して農畜産物を汚染し食べられなくしたと同時に、原子炉を冷やすために使われた大量の水も汚染し、その水が原子炉の周辺に行き場もなく溜まっている。冷却水の循環システムは平常時には閉じた系の中で循環するが、外から大量の水をかけ流せば、閉じた系の中で処理することはできない。地表水から一部は表流水に、残りは地下水になっていずれは海に出ていく。管理が届く範囲にある水も高濃度に汚染された水がどんどん増えている。これを外に出さないためには、それを溜める貯水槽を確保するために低濃度汚染水を海に流さざるを得ない。この水は海流に乗って世界の海をめぐる。海流が汚染物質を世界中にばらまくことは前報で詳しく述べた。
公式報告では「今のところ問題のない濃度」であるとされている。「今のところ問題がない」という言い訳は、今回、耳にタコが出来るほど聞かされた。「今のところ健康上の問題がない」のは、放射能の特性から言って当たり前すぎるくらい当たり前のことである。それはじわじわと人を殺す。チェルノブイリの悲劇は私たちにそれを教えている。仮に今後、大きいトラブルもなく、10年ほどをかけて原子炉を廃炉にしたとしても、今までに出した放射性物質を回収することは出来ない。それは世界中を経巡って世界の人々に脅威を与え、地球上の生き物たちを放射能の汚染に晒す。
放射性物質の放出の全体像は、今もって政府も東電も明らかにしていない。私たちが求めているのは具体的な事実の公表と、それに対する冷静な対処の仕方であるが、データの隠ぺいが逆に風評被害を助長している。出たものが取り戻せない以上、それに対して如何に冷静に対処すべきかが一番知りたいところである。
写真:水素爆発によって屋根が吹き飛んだ福島第一原発3号炉(左)、4号炉(右)Photos of the Day - Fukushima Dai-ichi Aerials OregonLive_com.mhtから。
農薬など化学物質による水汚染
農薬には安全基準があって、製造メーカーは多額の費用をかけて安全性を確かめ、政府の委員会はその試験結果を審査した上で使用を許可している。にもかかわらず問題点が残るのはなぜか。それは①他の農薬、化学物質との複合作用を見ていない、②環境に放出された後、化学変化したものも含めて残留物の長期的影響を見ていない、③メーカーの提出データに基づいて審査するのであって、第三者によるチェックを受けていない、などの問題点が残ったまま使われている。
日本は世界最大の農薬使用国である。その農薬やその他の化学物質、PM2.5などの大気汚染物質は環境に放出され、大気・水を汚していずれは世界の海に流れ出す。それらは生物などの自然の力でもとの無害な形に戻すことが難しい。日本は仮想水という形で世界中の水をかき集めている。その水を汚して返すということは本当に申し訳ないことではないか。
学者の責任、企業・政府の責任
原発の事故も、農薬・化学物質等による環境汚染も原因には底通しているものがある。原発でいえば、東京電力や原子力安全委員会、原子力安全保安院などの政府機関が事故を小さく見せようとしてしきりに「とりあえず今は安全」を繰り返した。しかし、事故が起きた真因はその前の設計段階にある。設計段階で地震の規模、津波の大きさは歴史的な記録から十分予測されたにもかかわらずそれを無視して設計が進められ、安全審査にかかわった学者たちはそれを見逃がした。一番働かねばならない場面で責任を果たさず、営利を優先する事業者とそれを押す「国策」を見て見ぬふりをして許してしまったのである。
これからの暮らし方・考え方と国民の責任
私たち国民も、見かけの「豊かさ」と便利さに目がくらみ、日々の生活が「怪しい安全」の上に成り立っていることを見過ごしてきた。学者や政府の言うことが信用できないとすれば、自分たちで勉強し、正しい考え方を身につけるしかない。経済成長で世界と競争するのではなく、地味ながら本当に平和で安心できるくらし方や社会のありかたを追及することがこれからの日本人の課題であろう。(連載4回 完)
なお、第1回、第2回、第3回も併せてお読みください。
〔筆者プロフィール〕
1933年生まれ。東京大学農学部農学科卒、1957~1993農林水産省試験研究機関勤務、1993~1998全農営農・技術センター勤務、1999技術士事務所井上農研開業、2000~2003有機農業認定機関「有機農業推進協会」副理事長、2005~2007同「民間稲作研究所認証センター」代表、現在同センター理事、2008~現在ひらつか自治体財政研究会会長。六文会事務局長。
世界の海を巡り始めた日本からの放射能汚染水
福島第一原発の事故によって発生した放射能は、大気を経由して農畜産物を汚染し食べられなくしたと同時に、原子炉を冷やすために使われた大量の水も汚染し、その水が原子炉の周辺に行き場もなく溜まっている。冷却水の循環システムは平常時には閉じた系の中で循環するが、外から大量の水をかけ流せば、閉じた系の中で処理することはできない。地表水から一部は表流水に、残りは地下水になっていずれは海に出ていく。管理が届く範囲にある水も高濃度に汚染された水がどんどん増えている。これを外に出さないためには、それを溜める貯水槽を確保するために低濃度汚染水を海に流さざるを得ない。この水は海流に乗って世界の海をめぐる。海流が汚染物質を世界中にばらまくことは前報で詳しく述べた。
公式報告では「今のところ問題のない濃度」であるとされている。「今のところ問題がない」という言い訳は、今回、耳にタコが出来るほど聞かされた。「今のところ健康上の問題がない」のは、放射能の特性から言って当たり前すぎるくらい当たり前のことである。それはじわじわと人を殺す。チェルノブイリの悲劇は私たちにそれを教えている。仮に今後、大きいトラブルもなく、10年ほどをかけて原子炉を廃炉にしたとしても、今までに出した放射性物質を回収することは出来ない。それは世界中を経巡って世界の人々に脅威を与え、地球上の生き物たちを放射能の汚染に晒す。
放射性物質の放出の全体像は、今もって政府も東電も明らかにしていない。私たちが求めているのは具体的な事実の公表と、それに対する冷静な対処の仕方であるが、データの隠ぺいが逆に風評被害を助長している。出たものが取り戻せない以上、それに対して如何に冷静に対処すべきかが一番知りたいところである。
写真:水素爆発によって屋根が吹き飛んだ福島第一原発3号炉(左)、4号炉(右)Photos of the Day - Fukushima Dai-ichi Aerials OregonLive_com.mhtから。
農薬など化学物質による水汚染
農薬には安全基準があって、製造メーカーは多額の費用をかけて安全性を確かめ、政府の委員会はその試験結果を審査した上で使用を許可している。にもかかわらず問題点が残るのはなぜか。それは①他の農薬、化学物質との複合作用を見ていない、②環境に放出された後、化学変化したものも含めて残留物の長期的影響を見ていない、③メーカーの提出データに基づいて審査するのであって、第三者によるチェックを受けていない、などの問題点が残ったまま使われている。
日本は世界最大の農薬使用国である。その農薬やその他の化学物質、PM2.5などの大気汚染物質は環境に放出され、大気・水を汚していずれは世界の海に流れ出す。それらは生物などの自然の力でもとの無害な形に戻すことが難しい。日本は仮想水という形で世界中の水をかき集めている。その水を汚して返すということは本当に申し訳ないことではないか。
学者の責任、企業・政府の責任
原発の事故も、農薬・化学物質等による環境汚染も原因には底通しているものがある。原発でいえば、東京電力や原子力安全委員会、原子力安全保安院などの政府機関が事故を小さく見せようとしてしきりに「とりあえず今は安全」を繰り返した。しかし、事故が起きた真因はその前の設計段階にある。設計段階で地震の規模、津波の大きさは歴史的な記録から十分予測されたにもかかわらずそれを無視して設計が進められ、安全審査にかかわった学者たちはそれを見逃がした。一番働かねばならない場面で責任を果たさず、営利を優先する事業者とそれを押す「国策」を見て見ぬふりをして許してしまったのである。
これからの暮らし方・考え方と国民の責任
私たち国民も、見かけの「豊かさ」と便利さに目がくらみ、日々の生活が「怪しい安全」の上に成り立っていることを見過ごしてきた。学者や政府の言うことが信用できないとすれば、自分たちで勉強し、正しい考え方を身につけるしかない。経済成長で世界と競争するのではなく、地味ながら本当に平和で安心できるくらし方や社会のありかたを追及することがこれからの日本人の課題であろう。(連載4回 完)
なお、第1回、第2回、第3回も併せてお読みください。
〔筆者プロフィール〕
1933年生まれ。東京大学農学部農学科卒、1957~1993農林水産省試験研究機関勤務、1993~1998全農営農・技術センター勤務、1999技術士事務所井上農研開業、2000~2003有機農業認定機関「有機農業推進協会」副理事長、2005~2007同「民間稲作研究所認証センター」代表、現在同センター理事、2008~現在ひらつか自治体財政研究会会長。六文会事務局長。
大震災からの復興 日本人の奥行きに期待 崔相龍(韓国元駐日大使) [日本は、今]
2011年4月21日付朝日新聞「AAN朝日アジアフェローから」に、崔相龍(チェ・サンヤン)さんの寄稿「大震災からの復興 日本人の奥行きに期待」が載っていますので、ここにご紹介いたします。
崔さんは、1942年慶州生まれ、ソウル大学卒業後、東京大学大学院で政治学を修められ、博士号取得の後、ハーバード大学客員教授などを歴任。現職は高麗大学校政治外交学科教授、現在、法政大学特任教授として滞日中。その間、2000年から2年間駐日韓国特命全権大使の重責を果たされたことは周知の事実ですが、日本留学期間中(1965年~72年)、1968年から数年間はアジア文化会館に滞在。アジア・アフリカ・ラテンアメリカの留学生・技術研修生、日本人学生たちと生活を共にしながら、親交を深めました。崔さんは、平和研究をライフワークとされ、真摯な研究活動を続けておられますが、「大正デモクラシーと吉野作造」「北一輝の思想と行動」などの日本関連研究のほか、大きな研究成果を挙げておられます。

(画像をクリックすると文字が拡大します。)
崔さんは、1942年慶州生まれ、ソウル大学卒業後、東京大学大学院で政治学を修められ、博士号取得の後、ハーバード大学客員教授などを歴任。現職は高麗大学校政治外交学科教授、現在、法政大学特任教授として滞日中。その間、2000年から2年間駐日韓国特命全権大使の重責を果たされたことは周知の事実ですが、日本留学期間中(1965年~72年)、1968年から数年間はアジア文化会館に滞在。アジア・アフリカ・ラテンアメリカの留学生・技術研修生、日本人学生たちと生活を共にしながら、親交を深めました。崔さんは、平和研究をライフワークとされ、真摯な研究活動を続けておられますが、「大正デモクラシーと吉野作造」「北一輝の思想と行動」などの日本関連研究のほか、大きな研究成果を挙げておられます。

(画像をクリックすると文字が拡大します。)
ボン、オータンの旅~ABKの先輩を訪ねて~(その三) 清水勇治・泰代 [よみがえれ、abkDays]
ドライブはオータンからノレイ、ボーヌへの往復100km。フランスの自動車制限速度は一般道路で90km/hとか、私たちは70から80km/h。観光もオフシーズンなのか行き交う車も少なく快適でした。
ブルゴーニュ地方はワインの地、さらにシャロレー牛、マスタードに塩。ボーヌへの途中、ブルゴーニュが一望できる丘に登った。(写真左) どこまでも続くブドウ畑は収穫が済み、きれいに剪定されていた。牛は広い野原に24時間放し飼い。広い畑に青々したからし菜。さすが農業の国、壮観でした。
ボーヌはブルゴーニュワインの中心地。昼食のレストランではもちろんワイン、美味しい! ご夫妻も食事にワインは当然のことで、ゆったりとした風情は私たちを落ち着かせてくれた。(写真右)
ボーヌの見所はオテル・デュ-、1400年代創設の 無料ホスピスで、医療費は王侯貴族から寄進されるブドウ畑からとれるワインで賄われた。その年のワイン相場を占うワインオークションが私たちの訪れた次の週にあるようだった。街には大きな菊の懸崖がいたるところに彩りよく飾られていた。
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ブリュッセルは日本でことのほか有名なモンドセレクションの地であり、EC議会をはじめ欧州の歴史ある街。由希江たちにご縁のPariselさんご一家を訪ねた。(写真左) ご主人Lucさん、奥様Chantalさんはお二人ともお医者さんで、病の人を診る以上にいろいろなことを受け入れるオープンなご家庭とお聞きしていた。Lucさんの大きな笑顔、Chantalさんのおしゃれで活動的なこと、家族和やかのこと、夕食のテーブルメイク、みんな素晴らしい! 短い時間だったが、心豊かなご好誼をいただいた。
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旅行のもともとはパリ留学中の由希江を訪ねることであったが、ドイツからオータンと遠回りをした。最後の夜は、部屋に由希江の親しいアルゼンチンの友人を食事にお呼びした。(写真右) まきまきと言って手巻き寿司を用意すべく、午前中にマルシェへ出かけて食材を探したが思いどおりにはならずメニュー変更。お客様のJavierとMalena、Axel、優秀な彼らは由希江の強力な支援者です。そして、この部屋の大家さんご夫妻Jean JacqueとSalimaさん。皆さんと素晴らしい時間を持つことができた。 感謝! 感謝! (完)
(その一)、(その二)も併せてお読みください。
〈水問題を考えよう 第3回〉 化学物質に汚染される水ー歴史を振り返って= 井上 駿 [環境問題は、今]
1962年、アメリカの女性生物学者レーチェル・カーソンは「沈黙の春」(注1)を発表した。当時の最先端の農業技術であった農薬が、極めて薄い濃度で散布されているのにもかかわらず、生物界の食物連鎖によって濃縮され、汚染されたミミズ11匹に含まれるDDTは、コマドリを殺すのに十分な量だと指摘した。そして、それよりはるかに低い濃度で、鳥たちばかりでなく、薬品の届く範囲のありとあらゆる生き物を不妊の危険にさらすと警告した。汚染にさらされた鳥たちは生殖が出来なくなり鳥が自然界から消えていくという趣旨から書名は「沈黙の春」と名付けられた。
1964年には同書の日本語訳が出、1974年には、小説家有吉佐和子が朝日新聞に「複合汚染」を連載した。そこではいち早く農薬の加害に気がつき警告を発し続けてきた奈良県五條市の医師簗瀬忠亮氏が紹介された。簗瀬氏は農薬の危険性を農家に訴えることによって、逆の命の危険を感じることもあったという。
1996年、同じく女性生物学者のシーア・コルボーンとその共同研究者たちは、いわゆる「環境ホルモン」の危険性を警告すべく「奪われし未来」を発表した。ある種の化学物質は生物に取り込まれてホルモンと同様の働きをするために、それを取り込んだ生き物に「オスのメス化」などの変調をもたらした。この一連の研究で取り上げられたのは古典的な農薬であるDDTをはじめとして、妊婦のつわりを和らげるDES、変圧器に詰めるPCB、そしてベトナム戦争の枯葉剤として悪名を馳せたダイオキシンなどだが、これらの化学物質が取り上げられたのはたまたまこれらについての研究データが他の化学物質よりは多かったからである。この本の中で、例として挙げられているPCBは、アラバマ州の工場から漏れ出して数千キロの旅をし、その間に食物連鎖による濃縮によって北極海の白クマの体内では数百万倍になると報告されている。
レーチェル・カーソンが「沈黙の春」を世に問うた同じ1962年に、セロン・G・ランドルフが「人間エコロジーと環境汚染病」(注2)を発表している。セロンは大学病院の医師として奇妙な精神症状を持つ患者を診察し続けるうちに、ミシガン湖のはるかかなたの石油の大精練工場からの排煙が、この患者の症状の原因であることを突き止める。それまで長年にわたって好・不調を不規則に繰り返す患者の症状の原因がつかめずにいたのに、それまでの記録と気象台の風向記録を突き合わせることによって、原因が明らかになった。ランドルフの研究成果を知った石油精製会社は、ランドルフに研究費の提供を申し出、ランドルフがそれを断ると大学にいられない状況になるというくらい、ランドルフの研究は核心をついたものだった。彼はあらゆる化学物質、化学製品を調べその危険性を洗い出した。(写真 注3)振り返って日本を見てみよう。日本の近代化による水汚染は明治中期(1885~)の足尾鉱毒事件に始まる。1877年、明治政府から足尾鉱山を買い取った古川市兵衛は、新しい鉱脈の発見によって増産に次ぐ増産を重ねるが、その結果は渡良瀬川のアユの大量死や、下流域一帯の稲の全滅などを招いた。農民たちは鉱山の廃止を求めて立ち上がるが明治政府は彼らの困窮を顧みず、古川市兵衛は責任を認めないままに金銭を支払い農民たちを分裂させる。渡良瀬川と利根川の合流点に位置し、被害の最も大きかった谷中村は廃村を強制され、現在は遊水地となって残っている。
1956年、熊本県水俣市で感覚障害、運動失調、視野狭窄などを症状とする原因不明の病気が発見された。その原因の特定には10年以上の歳月を要し、1968年になって同市の新日本窒素肥料株式会社の水俣工場がアセトアルデヒド製造過程で触媒に用いた水銀が原因であると特定された。この時期、いわゆる戦後日本の高度成長期には、富山県でのイタイイタイ病(1961年学会報告)、三重県四日市市での四日市喘息(1963)、新潟県阿賀野川流域における新潟水俣病(1965)とたて続けに公害病が発生している。
次報(第4回)では、化学物質による水汚染、環境汚染、人体被害の現時点での諸様相について報告したい。(つづく・連載4回)
(注1)Rachel L.Carson:Silent Spring 日本語訳は最初は「生と死の妙薬」の書名で新潮社から出版された。訳者は当時の農林省に勤務していた研究者たちだったと伝えられており、訳者名はペンネームであった。
(注2)セロン・G・ランドルフ著、松村龍雄他訳 農山漁村文化協会 昭和62年
(注3)ヒメミミウのクロスビル=アメリガ大湖において化学汚染(PCB・ダイオキシン)された魚を主食とするウに生じた奇形。クチバシの上下が揃わず、餌がとれない。〈「アナログRADIOあっとまーく」(H17年2月28日RNBラジオ、制作協力;南海放送 愛媛大学沿岸環境科学研究センター田辺信介教授出演番組)http://www.ehime-u.ac.jp/whatsnew/shokai/kouken/vol_3/radio.html〉より
第1回、第2回もご覧下さい。
〔筆者プロフィール〕
1933年生まれ。東京大学農学部農学科卒、1957~1993農林水産省試験研究機関勤務、1993~1998全農営農・技術センター勤務、1999技術士事務所井上農研開業、2000~2003有機農業認定機関「有機農業推進協会」副理事長、2005~2007同「民間稲作研究所認証センター」代表、現在同センター理事、2008~現在ひらつか自治体財政研究会会長。六文会事務局長。
ボン、オータンの旅~ABKの先輩を訪ねて~(その二) 清水勇治・泰代 [よみがえれ、abkDays]
次の目的地ブリュッセルへ向かう6日目、ヘンさんにケルンまで送っていただいた。ケルンはヘンさんのドイツ生活スタートの場所、1970年5月8日パリからの列車を降り、この街並みに立ったのでした。(写真左) それから40年、私たちも変わらぬ街並みを歩いた。ケルンはもちろん大聖堂、そして4711オーデコロン発祥のところ。 最後に、ヘンさん馴染みのお店で甘い大きなケーキとコーヒーをいただいた。今回はドイツの豊かな香りと、ヘン大人との親しい時間に浸ることができた。
パリからオータンへの入口となるル・クルーゾへのTGVの出発が40分遅れ、乗り継ぎバスを逃してしまった。次の連絡バスは5時間後。同様にバスを逃したお二人のフランス婦人とタクシーを相乗りし、オータンへ向かった。迎えに出られた小倉さんのご主人は、私たちが予定のバスから降りてこないので、走り去るバスを車庫まで追っかけられたとのこと、恐縮です、ありがとうございました。お住まいはオータン市街に近く、豊かな自然に囲まれていた。ご夫妻は遠来の私たちを迎え、盛り沢山な食事を手ずからご用意されておられた。(写真上右)
オータン行きについては小倉さん著『オータン物語』に感動してのこと。小倉さんが手配してくださった宿は、ラザレ大聖堂が目の先の歴史地区にある15世紀の建物で、旧い建物を上手に使っていると小倉さんお気に入りのところ。(写真左)
自家製ジャムやジュースなどたくさんの朝食に大満足していると、小倉さんご夫妻がブルゴーニュへのドライブに出かけるため、宿へ向かいに来られた。愛用の自動車はトヨタ。
ご主人クロードさんは永く高校の教師をなさっておられたので、街の中ではいたるところで教え子から声がかかり、話が始まります。ドライブに出発し途中パン屋さんに寄ったときの車の前で、朝市に案内されたときには店の方と、本当に親しくお話される。また、小倉さんにオータン市街を案内していただいたときにも、親しくされている街のお店に案内され、私たちはお勧めのなかからおみやげを購入した。オータンで45年、ただ一人の日本人だったときからオータンの大切な人になられていた。(写真右)
〈つづく。連載3回。 (その一)(その三)も併せお読みください。〉
胸襟開いた民間大使・崔相龍さん(韓国) 3度目の長期滞日 [アジアは、今]
2010年12月23日付朝日新聞に、崔相龍(チェ・サンヤン)さんの紹介記事「留学 先駆者の歩み 百年の明日 ニッポンとコリア」が載っていますので、ここにご紹介いたします。
崔さんは、1942年慶州生まれ、ソウル大学卒業後、東京大学大学院で政治学を修められ、博士号取得の後、ハーバード大学客員教授などを歴任。現職は高麗大学校政治外交学科教授。その間、2000年から2年間駐日韓国特命全権大使の重責を果たされたことは周知の事実ですが、日本留学期間中(1965年~72年)、1968年から数年間はアジア文化会館に滞在。アジア・アフリカ・ラテンアメリカの留学生・技術研修生、日本人学生たちと生活を共にしながら、親交を深めました。崔さんは、平和研究をライフワークとされ、真摯な研究活動を続けておられますが、「大正デモクラシーと吉野作造」「北一輝の思想と行動」などの日本関連研究のほか、大きな研究成果を挙げておられます。
駐日大使を退任された後も、2002年9月には、協会創立45周年記念講演「二度の滞日と日韓新時代」 (『月刊アジアの友』2003年2・3月号収録)の講師として、また、2006年11月には、協会50周年記念第1回シンポジウム「アジアのヒューマンネットワークを問う 2006 アジアにおける対話のチャンネルを求めて」(同 2006年12月号収録)にパネリストとしてご来日頂くなど、ABKとの交流は途切れることなく続いています。そして、2010年4月からは、法政大学特任教授として3度目の長期滞在のため来日されています。
ボン、オータンの旅~ABKの先輩を訪ねて~(その一) 清水勇治・泰代 [よみがえれ、abkDays]
今度の旅行には全18人の方にお会いする旅でした。選り抜きの感想は、添付文の説明のとおりです。ヘン(フチョン)さん曰く、ヨーロッパは過去のものではなく、日本はアジアにこだわらずに見直す必要がある、と。私は、ECの壮大な目標がどう発展するかが人類のあり方のように思っているのですがとにかく、街がきれいであることが印象的でした。(勇治)
お陰様で夢のような旅でした。ヘン(フチョン)さんの暮らすドイツのボンで、アジア文化会館の話に多くの人々が登場し、なつかしく不思議なエネルギーを感じました。58日間船旅でやっとマルセイユに着いたこと、1973年5月8日、ケルンに降り立ったこと・・・・・。話は尽きません。オータン(フランス)の小倉(尚子・デュボア)さんの家では、小木曽(友)さんの奥様(書道家・小木曽青壺)の書が迎えて下さいました。ゆったりと流れる時の中に、クロ−ドさん、小倉さんから生まれる力を限りなくいただきました。 (泰代)
その一
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11/2から2週間、寮の大先輩フランス・オータンの小倉尚子さんとドイツ・ボンのHeng Fu Chongさんを訪ねた。
私たちは空港でヘンさんに迎えられ、以降6日もの間、心暖かなガイドをしていただいた。フランクフルトからの旅の始めは、Astrid Fischerさんのお家に2晩お世話になった。アストリドさんの優しさは娘由希江から聞いていたことに違わず、穏やかで暖かな歓迎にほっとして日本にいるような気分であった。フランクフルト市内のゲーテの生家、レーマー広場、マイン川河畔、証券取引所などなどをめぐり、昼はソーセージ、夜はレストランでアップルワインとドイツ料理。列車でボンへ向かう途中で、絶景のローレライに呼び止められた!
ヘンさんのお住いは学生寮の一角にあって、寮監の様子。入口のらせん階段を2階に上がると広間・個部屋3・台所・風呂場。ヘンさんには朝一番のコーヒーから毎度の食事を私たちのために手作りしていただいた。寮の先輩とはいえ、ヘンさんの手馴れた料理には涙がちょちょぎれるほど嬉しかった。(写真左、右) 大きな広間はヘンさんをキーにする交差点で、多くの人たちが行き交っているに違いなく、思索の場所であり、Heng Worldの基地である。ヘンさん曰く「ここは寮よりも少しよいので、寮友の来訪を待っている」とのこと!
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お住まいから道を隔てた近くにある広大な森林公園(Bonner Weg der Artenvielfalt)にでかけた。(写真左) 雨上がりの澄んだ空気のなか、色とりどりの木々と落ち葉が一面に積もり、広い柵の中にはイノシシや鹿がいて、そして子どもの遊び場があって、長い散策の道は羨ましいかぎりのゆとりで続いていた。ここはまさに生物多様性の世界。夏はまた別格の場所になるのでしょう。そして、ここもまたヘンさんの思索の場所なのです。旧都ボンにあって、ヘンさんの環境のなんと素晴らしいことか!
ボン市内をライン川から市街地、ボン大学へと散策するうちに、ヘンさんはコーヒーを飲みにいくところがあるという。”Institut fur Orient- und Asienwissenschaften Abteilung fur Japonologie”の標識から中に入るとアジア研究科日本・韓国研究専攻事務室があり、窪田麻里恵さんがいらっしゃった。(写真右) 彼女は大学院で地理学を専攻していて、ここの求人に適ったとのこと。ちょうどコーヒータイムだという。私たちは、事務所のカウンターで美味しいコーヒーを淹れていただいた。ヘンさんのフィールドである!
(つづく 連続3回。 (その二)(その三)も併せお読みください。)
〔清水勇治氏: 新星学寮・アジア文化会館卒寮生。現アジア学生文化協会評議員。 泰代氏:元 アジア文化会館職員。高崎市在住〕
お陰様で夢のような旅でした。ヘン(フチョン)さんの暮らすドイツのボンで、アジア文化会館の話に多くの人々が登場し、なつかしく不思議なエネルギーを感じました。58日間船旅でやっとマルセイユに着いたこと、1973年5月8日、ケルンに降り立ったこと・・・・・。話は尽きません。オータン(フランス)の小倉(尚子・デュボア)さんの家では、小木曽(友)さんの奥様(書道家・小木曽青壺)の書が迎えて下さいました。ゆったりと流れる時の中に、クロ−ドさん、小倉さんから生まれる力を限りなくいただきました。 (泰代)
その一
11/2から2週間、寮の大先輩フランス・オータンの小倉尚子さんとドイツ・ボンのHeng Fu Chongさんを訪ねた。
私たちは空港でヘンさんに迎えられ、以降6日もの間、心暖かなガイドをしていただいた。フランクフルトからの旅の始めは、Astrid Fischerさんのお家に2晩お世話になった。アストリドさんの優しさは娘由希江から聞いていたことに違わず、穏やかで暖かな歓迎にほっとして日本にいるような気分であった。フランクフルト市内のゲーテの生家、レーマー広場、マイン川河畔、証券取引所などなどをめぐり、昼はソーセージ、夜はレストランでアップルワインとドイツ料理。列車でボンへ向かう途中で、絶景のローレライに呼び止められた!
ヘンさんのお住いは学生寮の一角にあって、寮監の様子。入口のらせん階段を2階に上がると広間・個部屋3・台所・風呂場。ヘンさんには朝一番のコーヒーから毎度の食事を私たちのために手作りしていただいた。寮の先輩とはいえ、ヘンさんの手馴れた料理には涙がちょちょぎれるほど嬉しかった。(写真左、右) 大きな広間はヘンさんをキーにする交差点で、多くの人たちが行き交っているに違いなく、思索の場所であり、Heng Worldの基地である。ヘンさん曰く「ここは寮よりも少しよいので、寮友の来訪を待っている」とのこと!
お住まいから道を隔てた近くにある広大な森林公園(Bonner Weg der Artenvielfalt)にでかけた。(写真左) 雨上がりの澄んだ空気のなか、色とりどりの木々と落ち葉が一面に積もり、広い柵の中にはイノシシや鹿がいて、そして子どもの遊び場があって、長い散策の道は羨ましいかぎりのゆとりで続いていた。ここはまさに生物多様性の世界。夏はまた別格の場所になるのでしょう。そして、ここもまたヘンさんの思索の場所なのです。旧都ボンにあって、ヘンさんの環境のなんと素晴らしいことか!
ボン市内をライン川から市街地、ボン大学へと散策するうちに、ヘンさんはコーヒーを飲みにいくところがあるという。”Institut fur Orient- und Asienwissenschaften Abteilung fur Japonologie”の標識から中に入るとアジア研究科日本・韓国研究専攻事務室があり、窪田麻里恵さんがいらっしゃった。(写真右) 彼女は大学院で地理学を専攻していて、ここの求人に適ったとのこと。ちょうどコーヒータイムだという。私たちは、事務所のカウンターで美味しいコーヒーを淹れていただいた。ヘンさんのフィールドである!
(つづく 連続3回。 (その二)(その三)も併せお読みください。)
〔清水勇治氏: 新星学寮・アジア文化会館卒寮生。現アジア学生文化協会評議員。 泰代氏:元 アジア文化会館職員。高崎市在住〕
〈水問題を考えよう 第2回〉 旱魃を引き起こす灌漑技術=井上 駿 [環境問題は、今]
旱魃を引き起こす灌漑技術
1.干上がったアラル海
アラル海は黒海の東約600kmに位置する。天山山脈に源を発するアルダリア、シルダリアの両河川に潤されて、水産資源も豊かな内陸の海であった。ソ連は自然改造計画を推進する中でこの両河川を水源とする灌漑計画を立て、それまでの小麦などの灌漑を必要としない穀作から、大量の灌漑を必要とする綿花栽培に切り替えた。このことによって一時期綿花は増産されたが乾燥地帯であるこの地域に灌漑をすることにより、蒸発散による水の消失が地中の塩分を地表に引き上げ、その塩分が結晶となって農業が出来ない土地に変えてしまった。
それまでアラル海にそそいでいた水は、灌漑用水として農地に回されそこで蒸発してしまうのでアラル海はみるみる縮小し、1960年代には6万7千km2あった面積が2003年には大アラル、小アラル合わせて1万7千km2と、4分の1にまでその面積を縮小している。漁船は干上がった湖岸に放置され舟の墓場と言われている。
2.農民の自殺まで引き起こすインドの灌漑稲作インドのパンジャプ州はこれまで小麦作地帯であったが、稲作の方が収益が上がるということから地下水をくみ上げて稲作に切り替える農家が続々と現れた。競争して地下水をくみ上げるので地下水位は年々低下する。それを補うために資金力のある農家はさらに深く井戸を掘るが資金の続かない農家は、隣の金持ち農家から水を買うか、諦めるしかない。このような状況の中で自殺する農家が後を絶たないと報じられている。
3.水収支バランスを捨てたアメリカ農業
北アメリカ中西部の、北はサウスダコタ州、ワァイオミング州から南はテキサス州にいたる広大な地域に、オガララ帯水層という地下水帯がある。この地帯は乾燥地帯ないしは半乾燥地帯で以前は小麦を2年に一回作付し、2年分の雨量で小麦を1年作り、後の1年は休ませて雨水を地中に保存するという栽培をしていた。地下水くみ上げの技術と灌漑技術が発達することによって、地下水による灌漑が普通のこととなり、水消費量の多いトウモロコシが連続して栽培されるようになった。トウモロコシは飼料向けであったり、相場によっては石油に代わるバイオ燃料の原料に向けられる。オガララ帯水層は今や枯渇の寸前にあるが規制が出来ず、打つ手がないと言われている。
写真(上)センターピボット灌漑方式の末端。パイプラインの長さは500m。これが旋回して半径500mの円形圃場に灌水する。(下)モンタナ州の2年1作の小麦栽培 (LIFE誌1955Feb).

4.灌漑技術の功罪
以上に見てきたように、灌漑の技術は発達したがそれは一方で水の浪費を生んでしまった。その地域にもたらされる雨量に見合った農業を営むことが持続的な農業であり、数千年にわたって貯えられてきた地下水を使い尽くすまでくみ上げてしまうことは略奪農業である。一見近代的な農業技術を駆使しているように見えながら、実は前後の見境もなく略奪農業を進めている私たちは、むしろ、古来から自然との付き合い方を探求してきた従来の農法に立ち返らなければならない時に来ているのであろう。(つづく・連載4回)
〔筆者プロフィール〕
1933年生まれ。東京大学農学部農学科卒、1957~1993農林水産省試験研究機関勤務、1993~1998全農営農・技術センター勤務、1999技術士事務所井上農研開業、2000~2003有機農業認定機関「有機農業推進協会」副理事長、2005~2007同「民間稲作研究所認証センター」代表、現在同センター理事、2008~現在ひらつか自治体財政研究会会長。六文会事務局長。
〈日本留学でのめぐり会い−私の忘れえぬ人〉 サヴィトリ・ヴィシュワナタン [よみがえれ、abkDays]
私は日本で留学したのは1966−1968年の2年6月間だった。文部省留学生との資格で日本へ行ったから最初は留学生会館に入館し、数ヶ月たってから運良くアジア文化会館に入館でき、アジア文化会館での生活が始った。毎日歩いて東京外国大学へ朝8時まで着くにはたいへん便利だった。
日本語の勉強と同時に、私の博士論文のための資料集めも日本留学の主な目的だったから、他の図書館を訪ねたり、その専門の先生方に会って話したりなども必要だった。日本語で話がある程度できるまで、その先生方に会うことを延期することにした。私は自分の研究テェマは日本研究に含まれていると思っていたのに、それは国際関係論だと少し軽蔑の態度で迎えられたことがあった。和文の目録を作るため手伝ってくれるように頼むと本屋へ行って見たらと言われた。勇気を出して紹介を受けて尋ねた先生が、案内してくださった人に“日本語分かるのか”と訊いたのを知ったとき、何か私の真面目さが理解されていないと感じた。と言うのは下手な日本語でしか話せないと思われても、英語の十分達者な先生が、日本語の無能を口実として私と話すのを避けたかったのだと悲しくなった。日本語で話そうと努力しているのを、なぜ激励してくれないかと思った。
私の苦労を知っていた、あるアメリカ人の有名な先生は、自宅で日本人の先生を招待し、私を紹介してくれた。しかし、日本人の先生は私と話すことに興味を見せてくれなかったし、それをアメリカ人の先生も注意し、残念だったなと言い、がんばってくださいと激励してくださった。このような環境で、私もがっかりしたり、心細くなったりして、朝8時から午後2時半まで、外語大で日本語の勉強をやりながら、なかなか、博士のテェマの勉強が進まないことが気になっていた。その時、ある先生に会うことができ一縷の望みが見えた。(写真左から2人目、筆者)

二
東京大学法学部の図書館を利用するため、法学部教授の紹介が必要になり、日本の政治思想研究の長老と評価されていた先生のところへ恐る恐る尋ねて行った。もちろん私がインドで会ったことのある東大の先生の紹介状を持っていたが、以前の経験で気が沈んでいた。しかし思いがけないことが起こった。その先生が非常に親切に迎えてくれ、日本での留学の目標を尋ね、早速図書館のフォウムに判を押してくださった。その方のにこにこしていた姿と、友人のように私の気持ちを知覚したような話しかけでなんとか私も自信を得るようになった。毎月判を押してくださるたび、私の勉強の進め方について聞いたり、他の学生と話しかけていると、私を参加させたり、自分のゼミの時間だから一緒に来て参加しないかと聞いたり、私の英語日本語交じりの話に一生懸命に耳を貸して批評してくださったり、私の書いた論文の章をよく読み、弱いところを指摘し、新しい見方を出すように励ましてくださった。日本へ来て、初めて指導教授ではないのに、親切に平等の立場で学問の議論が許され、たくさん勉強になった。
日本人の行動、態度などについて私の苛立ちなどを素直に受け取り、なぜ日本人の行動などがそうなっているかを日本の歴史、社会構造などを基にして説明してくださり、他の文化に接するときは、結論を急ぐのを避けるようにと主張してくださったのである。
三
たとえば、インド人がなにか新しい物を見たら、その元についての好奇心から調べ始めるけれども、日本人はその出来上がったものがどのように利用されるかと考え、始めてそれに成功もすると教えてくれた。要するに問題の分析の仕方の違いを示唆してくださったのである。普通、日本人は島国根性だから、その限界を心にもち日本人の話を理解し、仕方がないと思い、苛立たないほうが良いと言われていたのに、先生ののびのびとした言い方などから、そういう概括は正しくないと思うようになった。
日本人がインドで数人に会って日本人の性格に合っていないとそれを一般化したりして、インド人との共同活動がやり難いと決め付けるような同じ間違いを、私もしていたのではないかと考えるようになった。普通、インド人がしつこいと思われているから、忙しい先生が最初の出会いで白目でにらんだほうが良いと思われたのかもしれない。それを私の真面目さを理解してくれなかったと思い込んだのは私の誤解だった。
日本人がインド人の行動の動機を誤解する例を挙げてみよう。一回、あるインド歴史の専門の日本人の先生が、インドの歴史学会の長老と評価されていたインド人の先生と話し合いたくて、時間を頼むように言われ、その先生も親切に許してくれた。それを日本人に伝えたとき、このような有名な先生が、もし日本人なら、多忙だから絶対時間をくださらないのに、インドでは先生が忙しくないのだろうと言われた。それを聞いて、最初は驚いたが、それをそのままほっておくと、インド人に対する誤解が深まるだろうと思い、“先生は遠方から来る学者で、その上、数日間しかインドで滞在できない人だから、他の仕事を後回しして、先生に先に会うようにしたのです”と説明を加えた。
それで、その先生が、日本人のほうがよく働く人で暇もないけれども、インド人ならあまり働かない人でいつも暇だと言う誤解も解けたことと思う。インド人の行動への評価も変わってきたと思う。
☆
ここまでこの文書を読んでくださった人々には日本留学でのめぐり会い、私の忘れえぬ東大の先生の名前はなんだろうと推測できたと思う。その先生は丸山真男教授だった。
(原文は日本語。『アジア学生文化協会50周年記念文集』アジア学生文化協会編より)
〔筆者プロフィール〕
Prof.(Dr.)Savitri Vishwanathan,
Professor of Japanese Studies (Retd.)from University of Delhi,
在日中滞在先 アジア文化会館
在日期間 1966年4月−1968 9月
〔投稿〕 〈桜田門外ノ変〉 小木曽 建 [日本は、今]
先日、感ずるところあって、「桜田門外ノ変」という映画を見に行きました。久しぶりに映画館で見ましたが、最新の設備と思われる映画館でしたが、内容の迫真性(歴史ドラマですが)と相まって、なかなか見応えがありました。佐藤純弥という監督は知りませんでしたが、相当な意気込みが感じられる作品で、井伊大老が暗殺される場面も単なる「チャンバラ」ではなく、凄惨な現実性のある凝った「殺陣」となっていました。
ところで、桜田門外の変は、歴史的事実としては安政7(1860)年3月3日(陽暦3月24日)の出来ごと、つまり我々が生まれる70年くらい前の出来事で、われわれの感覚としては、遠い昔の出来事として、単に書物の中で出会う物語という程度で、現実性のあるものではありませんでしたが、考えてみると、我々が生まれる70年くらい前に、今の霞が関のあの辺りで、当時の政府(幕府)の最高幹部の一人(今でいえば、官房長官?)が、言わば一団の過激派に惨殺されるというのは、これは、今では想像を絶する大変なことであったという感じがします。
そのあとに続く一連の内乱(戊辰戦争など)を経て、いわゆる「維新」が達成されたわけですが、今となってみれば、はるか昔の、遠い遠いどこかの国の出来ごとのような気がします。しかし、現実に、この「東京(江戸)」で、あのような大事件が起こったのですから、これからも「絶対に起らない」という保証はどこにもない でしょう。事実、現代世界のセンターとも言うべきニューヨークとワシントンで、あの9.11がおこったのですから。今、東アジアも少しく「きな臭く」なり、「核拡散」の不気味な動きもあって、また何か想像を絶する「大変なこと」が起りそうな予感がしないでもありません。
しかし、そいう「大動乱」のときこそ、各人の「価値観」が試されるときで、われわれも「晩年」になって、また大変な事態に遭遇せざるを得ないかもしれませんが、何事も「運命」と心得て対処するほかないでありましょう。
(前東京工科大学教授、工学博士。アジア学生文化協会会員)
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